これって出雲神殿なのか?
さて、これまでは奈良盆地が邪馬台国ではないという理由を述べてきたが、これは畿内説が説くように「邪馬台国が奈良盆地に誕生して継続してそこにあった」ということではないという意味である。ではどうなのか?その謎を解く大きな発見が今回の大祭殿跡の建築様式に現れている。
先日放送されたNHKの「クローズアップ現代」で白石 太一郎さん(大阪府立近つ飛鳥博物館 館長)が説明していたが、この大型建築をはじめとした複数の建築跡が正確に東西に並んでいることから、太陽信仰の性格を持つ宗教施設であるということである。つまり現在の神社の造りとかわらないわけで、この最大の建築跡はその位置から本殿ということになる。そしてその最大の謎というのは正面から見て中心に柱があるということなのだ。左写真をみていただくとおわかりのように普通は正面の真ん中は通れるようにおおきく空いているのが常識である。では真ん中に柱のあるケースが他にあるか?というとあるのだ。そう、それは出雲大社の本殿である。
先日、出雲大社が改築のため仮宮に遷られている間、本殿の特別拝観があったのでいってよ~~く見てきたが、まさしく正面中央に柱があり右奥の部屋にご神体が安置されているのだ。右写真は古代出雲神殿を再現したモデルだがこのようになっているのだ。つまり、纏向遺跡とは出雲の神つまり「大国主命」を祀る国邑の都というわけである。
さあこれをどう考えたらよいだろうか?
*記紀には天照大神が大国主を吸収合併したことになっているが天照はどこにいるのだろうか
*しかも国譲りの時代はこの纏向の宮の何世紀か前のエピソードだが?
*奈良最古最大の神社大神神社の祭神は大物主(大国主)なのは当たり前!ということか
*天照大神はなぜ伊勢へ遷宮?しかもあちこちへ27度も!
*なぜ飛鳥以降は南北の中国風になるのか?
出雲にある西谷三号墳(四隅突出型墳丘墓)は方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。
ここから、各地との交流をしめす土器が出土しているが、それは北陸の土器と吉備の特殊器台である。時代も楯築遺跡と同時代と考えられるが、吉備、出雲、北陸が交流していたという表現にとどまらず、強い繋がりをもった関係になったと考えるられる。これがこの時代の社会変動の特徴をあらわすものだろうし、後年、纏向箸墓においても同様のことがおきたのだ。とくに「古事記に語られる出雲の国譲り」のエピソードが奈良大和と出雲の間におきた出来事と考えるとわからなくなるが、吉備倭(邪馬台国)と出雲の間の出来事と考えれば、ぴったり符合するのではないだろうか?そして何らかのおおきな圧力に押されるかたちでこの奈良盆地に遷都してきたのだと考える。
2009年12月11日金曜日
纏向で発見された巨大建築跡についての考察1
纏向巨大建築跡は卑弥呼の館か?!
11月10日(09年)の各有力新聞テレビにおいて「邪馬台国の最有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)で、卑弥呼(ひみこ)(248年ごろ没)と同時代の3世紀前半の大型建物跡が見つかり、桜井市教委が10日、発表した。」と報じた。これで、邪馬台国畿内説で決まりという空気ですべてのメディア(全部チェックしてないけど)が伝えたということである。
先日の「箸墓古墳の炭素14C年代測定による時代の深化」という歴博の発表の時と同様に九州説支持の人々はこのようにマスコミを利用して自説に誘導するやり方を強く非難するという構図だ。私もこの考えには一部賛同する、なぜならこのような巨大祭祀施設が纏向にあることは以前からいわれてわかっていたことであるのに、「ついに発見!」的な報道をするメディアの勉強不足とともに、そうなるようにもくろんで発表誘導しているように感じるからだ。そして私の意見を述べるなら、この畿内説と九州説のどちらも「邪馬台国の謎」と「日本誕生の歴史」を説明するには十分な説得力をもつとは到底思えないということだ。
第一の疑問点「古墳の元祖は中四国にある」
この纏向遺跡の最大の中心的存在はもちろん箸墓古墳である。この古墳はすでに畿内論者が自ら唱えるように、「古墳時代」の幕を開けた巨大前方後円墳だが、もしこの桜井の地または奈良盆地のいずれかに邪馬台国があったとするならば、この前段の弥生の墳墓が存在してしかるべきだがそれが見当たらないのだ。
高橋護先生の著書には「邪馬台国時代の墓制」というテーマで次のように語られている。近畿では古墳時代の直前まで「方形周溝墓」がほとんどでこれが弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がったが「古墳時代」に入り突然その姿を消してゆく、蛇足までにこの頃の北九州は甕棺である。
そしてこの前方後円墳が出現するのだが、この古墳の構成要素である「葺石、貼石」「竪穴式石室」「前方部」「円筒埴輪」それぞれの起源が山陰、讃岐、そして吉備に由来するのである。特に、吉備特殊器台が箸墓の頂部から発見されたということが大問題だと思う。当時の宗教感は現代の我々の感覚をはるかに越えて重要かつ中心的なものであったにちがいない、でなければ卑弥呼が女王となって多くの国々を治められる訳がないではないか。それをよその国(吉備)の借り物で祭祀を行うことなど考えられようか。畿内説では「多くの国邑の緩やかな連合体だったので各地の習俗、祭祀の手法を取り入れた結果である」というが、では中心となった大和(邪馬台国)のそれはいったいどこにあるのか?遠慮したのか?またこの付近に弥生後期の古墳に移行する前段の有力な弥生墳丘墓などが見つからぬことから、纏向遺跡自体も突然この地に出現したという風に表現される、つまりはこの奈良盆地に古墳も宮殿も何処から急に現れたということである。
第ニの疑問点「倭人伝の植生は奈良にはない」
HP「魏志倭人伝謎ときの旅」にはこう記されている。(要旨)「魏志倭人伝の樹木名から、推測できる森や林は、暖温帯に分布する照葉樹林である。現在の西日本の代表的な、植生である。しかし現在より寒冷であつた、弥生後期の奈良盆地では見られない。だが大阪平野なら生育していた。」HP作者の「曲学の徒」桂川光氏は畿内説論者ではあるが奈良県立橿原考古学研究所『弥生の風景ー唐古・鍵遺跡の発掘調査60年』の花粉分析の報告を引き残念ながら奈良の植生ではないとしている。畿内説論者は「魏の使者は卑弥呼の居る都までは来ていない、伝聞だからまちがいもある」というだろうが、まあ無理があるのではないだろうか。
第三の疑問点「女王国まで一万二千余里?」
魏志倭人伝によると、邪馬台国への行程は帯方郡から始まる。帯方郡とは今のソウル付近で、朝鮮半島の西海岸に沿って水行し、南へあるいは東へと進み、倭の北岸にあたる「狗邪韓国」(釜山付近)に到着する。これまでが七千余里である、と書かれている。そして「女王国まで一万二千余里」となっているのだ。これを地図の上で大雑把に測ってみるとよい。結論は岡山か鹿児島となる。つまり一万二千余里では奈良は遠過ぎるのだ。まあ、機内論者であれば狗邪韓国からの距離だというにちがいないが。
さて次に紹介するのは朝鮮の歴史書「三国史記」である。「三国史記」(新羅本紀)『57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。其國在倭國東北一千里」新羅第4代脱解王は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり』とある。つまり倭人(日本人)が海を渡って新羅の王となったという記述だ。丹後の宮津、籠(この)神社には「海をわたって新羅の王になったものあり」との伝説もあり、この多婆那国は「丹波国」で間違いない。すると、その南西千里とは現在の相生から備前のあたりがもっとも妥当であるし、魏志倭人伝の一万二千里の距離感とも一致する。いずれにしても丹波の南西方向に奈良はない。
2009年12月10日木曜日
田村誠一氏 指摘の地名めぐりの旅
田村氏はその仕事の傍ら独自の斬新な古代史解釈に没頭し多くの著作を残した方である。「古事記は事実であった」という原点から、佐竹先生の「高天原蒜山高原説」を支持し、古事記に著された神話をこの蒜山(吉備ー美作)から伯耆、出雲にかけての歴史に基づいた伝承であるという説を唱えられている。特に地図を丹念に精査されることが大きな特徴で、今回その内の代表的な場所を実際に訪ねてみることにした。
米子道溝口ICを出てナビをたよりに南部町をめざし最初の目的地「倭」に到着した。鳥取県西伯郡南部町倭はかつて大国村倭という地名でここに大国主と須世理毘売命(スセリ姫のみこと)が住まいを構えたと古事記にかかれているとされる場所である。ちょっと複雑だが田村誠一氏の本を研究再現しておられる大橋螢火氏のHPがありますのでこちら(大国村倭に関するページ)を参照頂きたい。
「於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。」迦能山之山本は、迦能山の麓のことです。今は、ここに「山本」ではなく、「倭」という集落があります。字名は、「大国」です。ここに、底津石根。宮柱布刀斯理と書かれた宮殿を建てたことになります。この倭でさっそく神社を探すと小高い山の中腹に加茂神社が見つかる、この山が宇迦能山ということだ。またすぐ近くに天満(手間)という字があり、同じ古事記の大国主のエピソードに登場する「手間の赤猪の岩」に由来すると思われる赤猪岩神社が存在する。大国主のエピソードにあわせて地名や神社名を後世につけたと考えるのはいかにも素直でない、この土地の伝承を稗田阿礼が取材暗誦したのだ。
さて、次に向かったのはゲゲゲの鬼太郎でおなじみの境港である。境港から境水道大橋をわたり美保が関町にはいったすぐの小さな港が「日向浦」ここは真南を向いているのでまさしく日向だ。この地を神武天皇(神倭伊波礼琵古命)が奈良大和に向かう出発の地「日向」であると田村氏は比定している。ひいじいさんの邇邇芸命(ににぎ)が葦原の中つ国に降臨し大山津見神の娘の木花之佐久夜毘売と夫婦となるが、大山津見神の本拠地は瀬戸内海の大三島であり櫛稲田姫(スサノオの奥さん)のおじいさんであることとも合わせると、中つ国が現在の中国地方の語源と考られる。
そして、弥生時代からの古い歴史を今も色濃く残す隠岐の島と本州を結ぶのもこの境港であるが、奇しくも我々の目の前を大きな隠岐の島行きのフェリーが悠々と波を分けて進んでいった。
さて、午後も深くなってきたので次に移動だ、せっかくなので「むきばんだ遺跡」を経由して東伯郡北栄町高千穂に向かった。(むきばんだについては別ログであらためて!)さて、この貴重な地名はすでに住所としては存在していないようでなかなかたどり着くのは難しいのだが、そのためではなく絶対に地名を安易に変えたりましてや無くしたりしてはいけないと思う。不思議なことというか有難いことにナビにこのちいさな部落の字名が載っていてなんとかたどり着いた。そこは、遠くに風力発電の風車が何機か見え、ひろびろとした畑が続く農村風景ですでにすこし薄暗く夕闇が迫っていた。
ここが邇邇芸命が高天原より天孫降臨した高千穂である。この地に立つと不思議な感覚に陥る、それは「ここは蒜山高原?」という感じがするのだ。
なぜなら、そのゆったりとした起伏、その背景にそびえる山々、畑にそだつ作物や芝そしてすこしひんやりとした空気が蒜山そっくりなのだ。つまり高天原天孫族が蒜山から降りてこの地を選んだ様子がありありと思い浮かぶのである。左の写真はこの高千穂より西南を望む大山の姿だが、ご存知のとおり大山は富士山のような円錐形ではなく頂上はぎざぎざでいくつものピークがある。つまり、大山こそが高千穂なのだ。
高千穂より大山を望む
謎の神宿を訪れる!
神宿(かみじゅく)は岡山最高レベルの謎ゾーンだ!
今日は念願であった、神宿と平福を訪れた。湯郷を過ぎて林野を作東町方面に右折する、5kmほどで平福郵便局がありそのちょい手前の信号交差点のさらに100mほど手前の山側の斜面が平福の陶棺で有名な野寺山古墳のあった場所だ。まさしく「あった場所」としかいいようのない状態で地元の墓地の上に写真のような説明看板があるのみである。
看板の文面「野寺山古墳」
展示されているかどうかは確認していないが、所蔵されているのでリンクの写真をご覧いただきたい。
この平福からくだんの交差点を北上して姫新線と中国道を越えたすぐのところが神宿だ。まずは紙老虎的世界のこのページを参考に一読していただくとよく解る。このように深く「中山」について考察していることには、おおいに敬意をはらいたい。特に(3)のページにこの神宿についてのリポートがあり、これを体感したいがための今回の訪問である。この集落には写真のような独特の小さな社殿のような建物を庭先に持つ家が数件あり、すべて東内(藤内)家である。以下、紙老虎的世界内の「作陽誌」の引用をさらに引用させていただく。
今日は念願であった、神宿と平福を訪れた。湯郷を過ぎて林野を作東町方面に右折する、5kmほどで平福郵便局がありそのちょい手前の信号交差点のさらに100mほど手前の山側の斜面が平福の陶棺で有名な野寺山古墳のあった場所だ。まさしく「あった場所」としかいいようのない状態で地元の墓地の上に写真のような説明看板があるのみである。
看板の文面「野寺山古墳」
「明治29年に陶棺が出土した。陶棺は赤色の地膚で切妻造屋根型の蓋をのせた長方形で前面に浮彫りされた絵は牧歌的な雰囲気が伝わる数少ない古墳後期の貴重なものである。この陶棺は現在東京国立博物館に展示されている。」
展示されているかどうかは確認していないが、所蔵されているのでリンクの写真をご覧いただきたい。
この平福からくだんの交差点を北上して姫新線と中国道を越えたすぐのところが神宿だ。まずは紙老虎的世界のこのページを参考に一読していただくとよく解る。このように深く「中山」について考察していることには、おおいに敬意をはらいたい。特に(3)のページにこの神宿についてのリポートがあり、これを体感したいがための今回の訪問である。この集落には写真のような独特の小さな社殿のような建物を庭先に持つ家が数件あり、すべて東内(藤内)家である。以下、紙老虎的世界内の「作陽誌」の引用をさらに引用させていただく。
この東内家の殿舎−その姿と「中山太神宮」の札から,一見「中山神社の元宮」ではないかと思ってしまうのだが, 実は神そのものではなく矛を祭るための特別施設なのである。文武天皇慶雲三年というのは西暦706年(飛鳥時代末期)なのだが、この年この楢原邑(神宿;神さまが逗留したから)に中山神が現れて、4ヶ月後には津山に移動したという。そしてそこが現在の中山神社というわけだ。その中山神社に伝わる奥義に5本の鉾を祀る儀式がありその鉾を収蔵管理しているのが楢原の東内家というわけである。しかし、そのことを東内家(写真の鉾殿のある家)の大奥様に尋ねたところ「今は何もしておらん」という不可解な返事であった。簡単には信じられないという印象を持った。ちなみに「なかやま」ではなく「ちゅうさん」がオリジナルの発音である。
藤内家書記如左 是は當(当)国一の宮, 中山大神宮の初穂取に御座候。 先年少之 内當 村に御鎭座成らせられ候よし, 申し傳(伝)え候。則ち「初穂取の者共神宿に居る」と申し傳え候藤内と申す者 先年(神の)御宿を申し候につき, その規模(ほまれ・てがら)として子々孫々まで當国の内, 東六郡の夏秋両度の御初穂取に候。 六郡の内‥‥云々‥。
矛 殿 藤内家にある神殿を云う。 棟を別にして方二間半ばかり。 藤内家は古は五家、今は分かれて六家となる。
矛殿に関する『作陽誌』の記述 夏秋二度初穂取六家
藤内日向(受領の家)
藤内源太郎
藤内長大夫
藤内勘大夫 (受領の家)
藤内主計
藤内三大夫
一宮社家説に云う。 昔 中山の社に神鉾あり。 その祭祀最も奥秘の神事とす。 世に叛臣ある時は則ち必ず此の祭を修す。 その法は石基を四方と中央に安して, 各神鉾をその上に建て,これを五座の鉾石と云う。嘉承二年丁亥十二月,対馬守源義親が出雲の国に在て謀叛の時,これを行うと云う。 そ の中央の石今苫南郡小原に遺る。この村の藤内家,五家有りて各矛殿を斎き祭るは, 所謂(いわゆる)五座の鉾にして,そのことに預かる務 めあるゆえ,すなわち己の宅に矛殿を勸請したるなるべし。 ‥云々‥。
作陽誌(上)昔,神始めて英田(多)郡楢原村に現わる。 藤内の祖菰(コモ)を採り?(チマキ)を作りて之を奉る。既にして神苫田郡霧山に入る。
作陽誌(下)山陽道美作記に云う人皇四十二代 文武天皇慶雲三年丙午五月上旬(二の午の日と云う)英田郡楢原邑東内の宅に中山大神化し来り二十日許御逗留 同年九月二十一日苫南郡霧山と云所に入玉ふ ‥云々‥。
一 宮社記昔 神始現于英多郡楢原邑 藤内祖採菰作?奉之 既而神入苫田郡霧山‥云々‥。
津山市史(1)中山の神が最初に現れるのは英田郡楢原においてである。神は白馬にまたがり,青木の枝を鞭にして現れたといわれる。この神を斎き祭ったの楢原の東内氏であり,東内氏は蒋(まこも)をとり,「ちまき」をととのえて神に供えたといわれている。それより以後東内氏は東作州の初穂を集め,十一月の二の午(うま)の日に荷前(のさき)祭り,云々‥‥。
中山大明神 鉾殿
2009年10月5日月曜日
神戸の巨大古墳 五色塚古墳
五色塚古墳 09 June 16
五色塚古墳(ごしきづかこふん)は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目にある、兵庫県下最大の前方後円墳。別名「千壺(せんつぼ)古墳」。築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。墳丘は前方部を南西に向けた3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18mで、墳丘は葺石で覆われている。山陽電車と日本国有鉄道(現JR)の路線建設までは前方部が現在より3倍位の長さで、古墳全体の長さが300m以上にも及ぶ大型古墳であった。
「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。
『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。(Wikipediaより抜粋)
なかなか判り難い場所にあるのだが、写真でわかるように明石大橋の望める場所なので、地図をたよりに住宅地を通ってたどりついた。年代やその造り大きさから、岡山造山古墳と同系の古墳なのだと思う。広島の三ツ城古墳を含めたこの三つの大古墳は河内の大古墳に通じるものだと強く感じる。この日は天気もよく、少し霞んではいるが淡路島を遠望できたので、ピックニックとしても楽しい経験だった。この後、神戸私立博物館に国宝桜ヶ丘銅鐸(どうたく)・銅戈(どうか)を見にいったのだが、特別展示の入れ替えとやらで入れなくとても残念!(篤姫ゆかりの薩摩切り子展にはあまり興味はないが、常設展示も入れなかった!くぅ〜〜!)ということで、「元町でShoping」&「南京町で四川料理」の規定路線に向かった。
五色塚古墳(ごしきづかこふん)は、兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目にある、兵庫県下最大の前方後円墳。別名「千壺(せんつぼ)古墳」。築造年代は4世紀末から5世紀初頭と推定されている。墳丘は前方部を南西に向けた3段構築の前方後円墳で、全長194m、高さは前方部で11.5m、後円部で18mで、墳丘は葺石で覆われている。山陽電車と日本国有鉄道(現JR)の路線建設までは前方部が現在より3倍位の長さで、古墳全体の長さが300m以上にも及ぶ大型古墳であった。
「五色塚古墳」の呼称は、明石海峡を挟んで対岸の淡路島西南部の五色浜付近から石を運んで葺かれたことに由来するという説もあったが、時間帯で変わる太陽の光によって葺かれた石が異なる色で反射することに由来するという説も出てきている。古墳の表面に使われている石は明石海峡内のものとされている。
『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。瀬戸内海の海上交通の重要地点である明石海峡を望む高台に造られていることから、神戸の西部から隣の明石にかけて相当大きな力を持っていた豪族の墓と考えられている。(Wikipediaより抜粋)
なかなか判り難い場所にあるのだが、写真でわかるように明石大橋の望める場所なので、地図をたよりに住宅地を通ってたどりついた。年代やその造り大きさから、岡山造山古墳と同系の古墳なのだと思う。広島の三ツ城古墳を含めたこの三つの大古墳は河内の大古墳に通じるものだと強く感じる。この日は天気もよく、少し霞んではいるが淡路島を遠望できたので、ピックニックとしても楽しい経験だった。この後、神戸私立博物館に国宝桜ヶ丘銅鐸(どうたく)・銅戈(どうか)を見にいったのだが、特別展示の入れ替えとやらで入れなくとても残念!(篤姫ゆかりの薩摩切り子展にはあまり興味はないが、常設展示も入れなかった!くぅ〜〜!)ということで、「元町でShoping」&「南京町で四川料理」の規定路線に向かった。墳頂の埴輪列より明石海峡大橋を望む
青谷上寺地遺跡
青谷上寺地(あおや かみじち)遺跡 09 May 7
青谷上寺地遺跡とは、鳥取県の鳥取市から9号線を20kmほど西に行った鳥取市青谷という地区にある。国道から少し内陸にはいった処だが、国道バイパス工事に伴い発掘がおこなわれ、現在は埋め戻されている。そしてその近くに大変質素だが好感の持てる「青谷上寺地遺跡展示館(無料)」がある。出土品には、多量の土器をはじめ、容器や建築材などの木製品、漁撈(ぎょろう)具や装身具などの骨角製品、工具類などの鉄製品や石器などの多種多様なものがみられる。これは、遺跡が低湿地にあり、厚い土の中で真空パックの状態に置かれていたため、その残り具合が大変良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といわれている。
さらに、青谷上寺地遺跡の弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流している。九州系や北近畿系、吉備地方の土器、石材もこの近辺の石材だけではなく、新潟産のヒスイや瀬戸内産のサヌカイトなどが使われている。また、360点を超える鉄製品や、古代中国の貨泉(かせん)が出土したことによって、海を渡り北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との交流も行われていたことが想像できる。このことは、青谷上寺地遺跡が単なる村ではなく、海上交通の重要拠点だったということだ。
遺跡の東側の溝では、弥生時代後期の約5,300点の人骨が見つかり、中には110点の骨に殺傷痕(写真)が見られた。これは、平和に暮らしていた村が、一気に奇襲攻撃をされて乗っ取られたことを意味している。通常の戦争であれば、順々に墓に埋葬するだろう。つまりこれは異文化の侵略であり、この青谷がいかに重要な拠点であったかという証明でもある
さて、この写真は「木製の琴の側板」で弥生中期後葉というから、この村の滅亡前の幸せな時期のものである。まず、この模様に注目して頂きたい。なにやら四つ足の動物が描かれている、みなさんにはいったい何に見えるだろうか?角がぐるっと回っている動物といえば、私には「山羊か羊」にしか見えないのだが、この動物をある程度特定している文書はない。なぜ羊でないかといえば「この時代(弥生)の倭国に羊は存在しなかった!」ということなのだろう。しかし、そんな単純なものだろうか?前々項でも触れたようにこの時代の中国にはシルクロードを通じて多くの外国人(ユダヤ)が絹を求めて出入りをしていた。そのユダヤ商人が絹や不老不死の薬を求めて足をのばし倭国まで来ていたことは、そんなに大層な想像力を働かさなくても解る。そう、羊はユダヤ商人にとって神の使いなのだ。
この青谷の地から西へ10kmほど行くと東郷池があり、その水面を望む小高い丘に伯耆一宮の「倭文神社』がある。さらにその先の倉吉の志津にも倭文神社(三宮)が、そして山を越えて南下すると美作久米の倭文神社へと続く。つまり当時の文化最先端地である出雲、吉備の倭絹(倭文)を集荷して青谷から半島へ出港するというそんな絵が浮かんでくる。
青谷上寺地遺跡とは、鳥取県の鳥取市から9号線を20kmほど西に行った鳥取市青谷という地区にある。国道から少し内陸にはいった処だが、国道バイパス工事に伴い発掘がおこなわれ、現在は埋め戻されている。そしてその近くに大変質素だが好感の持てる「青谷上寺地遺跡展示館(無料)」がある。出土品には、多量の土器をはじめ、容器や建築材などの木製品、漁撈(ぎょろう)具や装身具などの骨角製品、工具類などの鉄製品や石器などの多種多様なものがみられる。これは、遺跡が低湿地にあり、厚い土の中で真空パックの状態に置かれていたため、その残り具合が大変良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といわれている。さらに、青谷上寺地遺跡の弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流している。九州系や北近畿系、吉備地方の土器、石材もこの近辺の石材だけではなく、新潟産のヒスイや瀬戸内産のサヌカイトなどが使われている。また、360点を超える鉄製品や、古代中国の貨泉(かせん)が出土したことによって、海を渡り北九州や遠くは朝鮮半島、中国大陸との交流も行われていたことが想像できる。このことは、青谷上寺地遺跡が単なる村ではなく、海上交通の重要拠点だったということだ。
遺跡の東側の溝では、弥生時代後期の約5,300点の人骨が見つかり、中には110点の骨に殺傷痕(写真)が見られた。これは、平和に暮らしていた村が、一気に奇襲攻撃をされて乗っ取られたことを意味している。通常の戦争であれば、順々に墓に埋葬するだろう。つまりこれは異文化の侵略であり、この青谷がいかに重要な拠点であったかという証明でもある
さて、この写真は「木製の琴の側板」で弥生中期後葉というから、この村の滅亡前の幸せな時期のものである。まず、この模様に注目して頂きたい。なにやら四つ足の動物が描かれている、みなさんにはいったい何に見えるだろうか?角がぐるっと回っている動物といえば、私には「山羊か羊」にしか見えないのだが、この動物をある程度特定している文書はない。なぜ羊でないかといえば「この時代(弥生)の倭国に羊は存在しなかった!」ということなのだろう。しかし、そんな単純なものだろうか?前々項でも触れたようにこの時代の中国にはシルクロードを通じて多くの外国人(ユダヤ)が絹を求めて出入りをしていた。そのユダヤ商人が絹や不老不死の薬を求めて足をのばし倭国まで来ていたことは、そんなに大層な想像力を働かさなくても解る。そう、羊はユダヤ商人にとって神の使いなのだ。この青谷の地から西へ10kmほど行くと東郷池があり、その水面を望む小高い丘に伯耆一宮の「倭文神社』がある。さらにその先の倉吉の志津にも倭文神社(三宮)が、そして山を越えて南下すると美作久米の倭文神社へと続く。つまり当時の文化最先端地である出雲、吉備の倭絹(倭文)を集荷して青谷から半島へ出港するというそんな絵が浮かんでくる。
大江山 皇大神社
大江山 皇大神社(こうだい じんじゃ) 09 May 6
皇大神社は酒天童子で有名な大江山の南麓にあり、籠神社と同様に元伊勢を名乗って天照大神を祀っている。ちなみに「皇大神」とは「天照大神」のことである。伝承によればアマテラスはこの丹波でなくなり、その亡骸は、皇大神社の付近に葬られているという話もある。とすると元伊勢というより、大元伊勢といってよいかもしれない。昨日、宮津から与謝野町の「丹後ちりめん歴史館」を訪ねた後、大江山グリーンロッジに宿泊した。あとでわかるのだが、歴史館の近くに全国でも数のかぎられた倭文神社がある、つまりこの地域には古代から絹産業が存在した証拠だ。翌朝、たっぷりと朝ごはんをいただきさっそく出発した。山道を数分下ると、本日の目的地の皇大神社に到着した。
昔から参拝客の多いこの神社の参道にはみやげものやや旅館が立ち並ぶがいまは人通りもなくさみしい空気がただよっていた。入り口からゆるやかな階段がしばらく続く、なかなかの社格を感じさせる古社の趣だ。その清涼とした空気感は伊勢神宮にちかいものを感じる。写真の拝殿の前にたどり着くと、左側の階段から十名ほどの白装束姿の人がむしろをもって現れた。やはり多くの信者さんがこのようにお参りにくるのか?彼らは拝殿の前に座りこんでなにやらお祈りをはじめた。我々のようなたまの参拝者にはお参りしにくい状況である。お掃除をされていた方に「いつもこのような信者さんがこられるのですか?」とたずねると「時々、現れる大阪の新興宗教の一団」という返事であった。ものの本(HP)によると、古代より皇大神社一帯は聖地とされており、明治以後、聖地としての色合いは一層鮮明になる。かの大本開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊と勢崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行ったといわれており、多くの神道系新興宗教が聖地とあがめこの地へのお参りをおこなうのだそうだ。
明治末期、籠神社がそうであった様に、皇大神社においても社格昇格運動が起こったそうで、運動の中心的存在として活躍された脇田房蔵氏(元河守上村長)は、皇大神社周辺の口碑調査をメモにして残されているそうだ。その中に『日室ヶ嶽(岩戸山)に相対峙する山を高底城山という。高底城とは御陵地の尊名であり、ここは皇大神の御遺骸を納めた地である。』との驚くべき伝承をとどめている。古代史におけるただならぬ場所であることは間違いないようだ。ちなみに田村誠一氏は「天照大神は蒜山(高天原)を出て大江山に移った」とその書物に著わしている。
皇大神社は酒天童子で有名な大江山の南麓にあり、籠神社と同様に元伊勢を名乗って天照大神を祀っている。ちなみに「皇大神」とは「天照大神」のことである。伝承によればアマテラスはこの丹波でなくなり、その亡骸は、皇大神社の付近に葬られているという話もある。とすると元伊勢というより、大元伊勢といってよいかもしれない。昨日、宮津から与謝野町の「丹後ちりめん歴史館」を訪ねた後、大江山グリーンロッジに宿泊した。あとでわかるのだが、歴史館の近くに全国でも数のかぎられた倭文神社がある、つまりこの地域には古代から絹産業が存在した証拠だ。翌朝、たっぷりと朝ごはんをいただきさっそく出発した。山道を数分下ると、本日の目的地の皇大神社に到着した。昔から参拝客の多いこの神社の参道にはみやげものやや旅館が立ち並ぶがいまは人通りもなくさみしい空気がただよっていた。入り口からゆるやかな階段がしばらく続く、なかなかの社格を感じさせる古社の趣だ。その清涼とした空気感は伊勢神宮にちかいものを感じる。写真の拝殿の前にたどり着くと、左側の階段から十名ほどの白装束姿の人がむしろをもって現れた。やはり多くの信者さんがこのようにお参りにくるのか?彼らは拝殿の前に座りこんでなにやらお祈りをはじめた。我々のようなたまの参拝者にはお参りしにくい状況である。お掃除をされていた方に「いつもこのような信者さんがこられるのですか?」とたずねると「時々、現れる大阪の新興宗教の一団」という返事であった。ものの本(HP)によると、古代より皇大神社一帯は聖地とされており、明治以後、聖地としての色合いは一層鮮明になる。かの大本開祖・出口ナオと大本聖師・出口王仁三郎が皇大神社を真の元伊と勢崇敬し、天岩戸神社の清水で禊ぎを行ったといわれており、多くの神道系新興宗教が聖地とあがめこの地へのお参りをおこなうのだそうだ。
明治末期、籠神社がそうであった様に、皇大神社においても社格昇格運動が起こったそうで、運動の中心的存在として活躍された脇田房蔵氏(元河守上村長)は、皇大神社周辺の口碑調査をメモにして残されているそうだ。その中に『日室ヶ嶽(岩戸山)に相対峙する山を高底城山という。高底城とは御陵地の尊名であり、ここは皇大神の御遺骸を納めた地である。』との驚くべき伝承をとどめている。古代史におけるただならぬ場所であることは間違いないようだ。ちなみに田村誠一氏は「天照大神は蒜山(高天原)を出て大江山に移った」とその書物に著わしている。新興宗教のみなさん
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