2008年10月28日

安倍晴明 吉備に現る

安倍晴明 天文台 08 July 8

いわずとしれた、平安時代最高の超能力者?である安倍晴明は陰陽師として天文を担当したが、この鴨方町に彼が天体観測のために使ったといわれる屋敷跡がある。これまで「安倍晴明ゆかりの地」という看板はたびたび見かけてきており、ついに本日たずねることとなった。

矢掛町と鴨方の境にある竹林寺山の一角には国立天文台岡山天体物理観測所がある、かの有名な竹林寺天文台である、その西どなりの安部山の山中にこの平安の天体観測所跡があるというのはどういうことなのか?鴨方からも矢掛からも細い山道がありすぐそばまで登れる、道の脇に駐車してしばらく歩くとこの安倍晴明屋敷跡こと晴明神社はあった。しかし、関西出身の安倍晴明と吉備がどう関係するのかわからない、がっ 調べてみるとなかなか深い関係にあることがわかってきた。

安倍晴明の師匠 賀茂 保憲(かも の やすのり、917年 - 977年)は、陰陽頭。その父、賀茂忠行は陰陽道の宗家、それも吉備真備の血筋であるというのだ。つまり、この「鬼道」の宗家は吉備の加茂家ということである。まず、この地が「鴨方」であり、造山古墳の在る場所が「加茂」、吉備津神社の元社の可能性のある新庄の「御鴨神社」というぐあいに「吉備と加茂」の関係は深い。さてまた新たに迷路があらわれた感じである。

2008年10月27日

出雲遺跡群へ その二

西谷墳墓群 08 May
出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に発見され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1〜4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荒神谷遺跡から出雲市に向かって車をすすめると、なかなかわかり難いところにこの遺跡公園はある。出雲市駅の比較的近くなのだが、街中ではなく目印といえば出雲商業のグランドに隣接しているということだろうか。駐車場から公園内を周回する遊歩道が整備されており、さっそくその特徴である台形の墳墓が現れる。これがあの有名な四隅突出型墳丘墓だ。方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形の大型墳丘墓で、その突出部に葺石や小石を施すという墳墓形態である。

三号墓といわれるものから、各地との交流をしめす土器が出土しているが、それは北陸の土器と吉備の特殊器台である。時代も楯築と同時代と考えられるが、吉備、出雲、北陸が交流していたという表現にとどまらず、強い繋がりをもった関係になったと考えるがどうだろう。これがこの時代の社会変動の特徴をあらわすものだろうし、後年、箸墓においても同様のことがおきたのだろう。とくに「古事記に語られる出雲の国譲り」のエピソードが奈良大和と出雲の間におきた出来事と考えるとわからなくなるが、吉備大和(邪馬台国)と出雲の間の出来事と考えれば、ぴったり符合するのではないだろうか?

四隅突出部から墳頂に登る

出雲遺跡群へ その一

加茂岩倉遺跡&荒神谷遺跡 08 May
ひさしぶりの休日、代表的な出雲遺跡群へでかけてみた。まずは島根県雲南市にある加茂岩倉遺跡、大量の銅鐸が道路工事の土中から発見された超有名なところだが、さすがにもう人が行列をつくることはない。この地名に注目すると、「加茂」の「岩倉」でとなりが「神原」で、どれをとっても意味深なものばかりだ。これだけでもここになにかありそうなものである。ここに山を横切って道を造ろうとして削っていたら偶然でてきたというのだから、もっとなにかうまっているにちがいない。

このあとは、お決まりのコースであるが荒神谷遺跡にむかった。じつは直線距離ではすごく近い両遺跡であるが、車では10kmくらいかかる。以前きたとき工事中だった「荒神谷博物館」が完成していた、はいってみると、本来定休日であったにもかかわらず、消防訓練?で偶然観客役で入れてもらえた。ラッキー!写真は銅矛のレプリカ(もちろん)でその形と重さを体験できる、かなり重い。中の展示や解説が非常にわかり易くできていて、最近のこうゆう施設はすばらしい。

荒神谷遺跡は358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が出土したことで有名であるが、その数が圧倒的でほぼ一箇所の山あいの傾斜に埋もれていたわけだ。ここも農道の工事にさきがけた調査で偶然発見された土器片をきっかけに調査された結果だそうだ。

2008年5月20日

大山を望む 毛無山


連休初日、鳥取との県境の毛無山に向かった。もしかすると岡山でもっとも人気のある山かもしれない、登山口が整備されているし、山道もよし景色よし、森もよしということだろう、大勢の登山客と出会う。数にして200人位で多くのカメラおじさんが含まれており片手にカメラを掲げて上り下りしていた。さらに元気なのは奥様軍団で「三平山から縦走してきた」と意気軒昂で、すでに6〜7時間歩いているというから脱帽である。
今日は白馬山から毛無に廻るコースをとった、すると1時間ほどで白馬山頂の広場に到着したが、このあたりに片栗の花が群生していた。保護されているので踏んづけると怒られるので慎重に下をみて歩く。
縦走路からみる右手が大山、左手に田浪の集落を見下ろして景色が広がる。40分ほどで毛無山頂に到着する。
毛無山は役の小角の開闢による修験道の山とされ、戦前まで女人禁制であったとのこと、「けなしがせん」と読む。「山」を「せん」と読むのは中国地方の特徴であるが、「せん」は呉音であり、長江流域の言葉と考えられる。さらに修験道の祖「役の小角」は実は神官の子なのである、神道と仏教を融合させた形が修験道であるが、それは神の邦である吉備で醸成され熊野に移行していったのではと想像する。つまり「せん」と読むこの地域で修験道もしくはその原点が生まれたのではというのが私の説だ。

山頂からはすこし霞んではいるが大山の全容が見える、そしてまだ雪をかぶっている。下山は1時間5分、この時間に登る人もおらず誰ともすれ違わなかった。駐車場には我々の車だけであった。

2008年5月13日

仏ヶ山に再挑戦,蒜山は古代湖だった

仏ヶ山に再挑戦、蒜山は古代湖だった 08-Apr.15


仏ヶ山は蒜山高原の中和村と八束村の境にあって、丁度下蒜山の東隣りの山である。先々週の火曜午後にトライしたのだが、そのときは雪が林道に所々に残っており1km手前から徒歩で登山口に向かっていると、山菜とりのご老人が雪の中で車を脱輪させて立ち往生している現場(峠)に出くわした。結局、この救助作業でこの日は終了して、いつもの「豆腐」を買って帰るという一日だった。

さて本日だが、23度を越える快晴で雪もすっかり消えていた。峠に車を止めてさっそく登山開始、登りはいささか急でしばしば足がとまった(運動不足?)が、距離は短く約25分程度で少々のやぶこぎの末、三角点に到着した。

この写真は北に開けた倉吉方面(日本海)を望む景色である。田村氏の説によればこの方角に天孫降臨の高千穂(鳥取県東伯郡北栄町岩坪付近)がある、地図でみると字名としてはのこっているが住所としてはない様子だ。現在の北栄町は旧北条町と旧大栄町の合併によるもので、どんどん地名が減っていくのがなんとも悲しい。10分ほど頂上で過ごし、慎重に下山した、30分で登山口に到着した。

時刻はもう5時になっていた、東集落から蒜山三座山麓のドライブウェイに入り心地よい風を楽しみながら走ってゆく。すると、いつもは何気なく通り過ぎていた石切場のような大きな穴が気になり入ってみた。これが蒜山の珪藻土の採掘場であった。

約100万年前頃、火山の活動により蒜山三座が誕生した。それまでの川の流れは西に方向を変え、上蒜山の西側より日本海側へ流れ込むようになった。更に約35万年前、大山の噴火によって西側がせき止められ、「蒜山原湖」が誕生したのだそうだ。南を中国山地、北を蒜山三座に囲まれた蒜山原湖には珪藻(けいそう)が繁茂した。珪藻は珪酸質の殻を持つため、湖底に堆積していく。珪藻が生息していたのは5万年間と推定され、珪藻土の最も厚いところは約100mに達すると言われている。
その後も大山の噴火活動は続き、現在の真庭市蒜山地区西部あたりは噴出物で埋まっていき逆に湖の東部は旭川水系の浸食を受け、湖水は南へと流出し始めた。やがて湖は干上がって消滅したが、珪藻は化石となって残った。蒜山高原の誕生の歴史である。

2008年3月26日

吉備の中山を歩く

吉備の中山を歩く 08 Mar.25

古今和歌集に「真金吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川のおとのさやけさ」と歌われる岡山市吉備津の中山を訪れた。現在、吉備津神社は本殿を改装中で少しうす暗いなか参拝を済ませると回廊を南に廻り遊歩道の入り口にたった。ここ吉備津神社ではどうも東西南北の感覚がおかしくなってしまう。実際には本殿がほぼ北を向いているが、まずはこのことが大変めずらしい。ほかに北を向いている神社があったら是非紹介してもらいたいと思うくらいだ。ここから足守川をはさんだ西2kmにあの楯築弥生墳丘墓があり方位信仰の跡が残る遺跡であることを考えると、この吉備津神社の出自に特異な歴史があるのだと思う。

この山の最高峰は竜王山(ここも中国系?)で175mという低山であるがそれでも細谷川となずけられた小川がチョロチョロとながれている。遊歩道として整備された道をしばらくいくと残念ながらアスファルトの車道にでる、よい天気のせいかたくさんのウォーキングの人々と出会った。さて左側に中山茶臼山古墳への登り階段があらわれるのでさっそくゆくとよく整備されたその広場に到着する。ここは陵墓参考地に指定されており古墳内への立ち入りが禁止されているがその主は「吉備津彦命」とされている。

つぎは、ここからすぐの場所にある古代吉備文化財センターにたちより、本日の目的地でもある矢藤冶山古墳への道を訊ねることにした。ここには「上東遺跡の護岸跡」「吉備の陶棺」「吉備特殊器台」などの大物を見ることができる。さて教えてもらった道をゆき約20分ほどで矢藤冶山古墳の頂上に到着した。実際にはセンターの事務の女性はこの古墳のことを知らなかったし、リンクページをさがしたがWEB上にこの古墳を説明するページはヒットしない、つまり思いのほか扱いがちいさいのだ。しかし墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡であるに違いないのだ。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。

矢藤冶山古墳と説明板

2008年3月13日

備前車塚古墳は竜の口の山の上

備前車塚古墳は竜の口の山の上 08-Mar.11

備前車塚古墳は墳長48.3m、後方部長23mの前方後方墳で三角縁神獣鏡が11面出土している重要な古墳である。岡山市内の高島や備前国府の跡(古代での存在は不明)の近くの四御神にある団地の奥にその登山口はある。この山は竜の口山と呼ばれる257Mの山でその中段100M位のところで南面の景色のよかったであろう(いまは木がじゃま)場所に造られている。

竜の口山は「竜の口グリーンシャワー公園」として整備されていて快適な山歩きコースになっており、今日は車塚を経由して山頂を目指すことにした。30〜40分で山頂展望台に到着、ここからの景色がよくてすぐ南に操山さらにその向こうの貝殻山がはっきりとみえる。

下りは四御神コースをおりたが、このコースは一瞬県北の深い山を歩いていると錯覚するような景色がつづく。途中、古墳群もあり寄り道しながらゆっくりと歩くと出発地の車塚公園に1時間で帰着した。

備前車塚古墳の神獣鏡の出土、特殊器台埴輪がなくその山の名が「竜の口」という点から極めて中国色の強い性格のものだなという感想である。