悠紀(ゆき)の国・主基(すき)の国 2010年5月
まず、「悠紀・主基」の語源について「行き、過ぎ」つまり 朝廷にとっての「未来の国、過去の国」ではないかとされている。そして確実な文献に残るのは天武紀からなのだそうだが、醍醐天皇から特定の国に限られてい るという。(現在は京都より悠紀は東、主基は西の県から選ばれている。)その国とは「悠紀」は近江、「主基」は備中か丹波に決まっていたのだ。また、その すぐ前まではそれに加えて「備前」「美作」「播磨」を順繰りにまわっている。先生のご意見の趣旨は吉備国は播磨までがその領域に含まれていて、吉備津神社 がそれを表しているというお話であった。
私はこれらの話を読んで思った、この斎田に選ばれる国々「備中」「丹波」「備前」「美作」「播磨」そして「近江」とは天のヒボコに強い縁のある場所 ばかりではないかと。しかも天武天皇が新羅系であることもこれに重なる。
つまり奈良大和にある朝廷の母国は吉備だったのではないだろうか。また、崇神天皇の御代にアマテラスが安住の地をもとめてあちこち巡幸するわけだが その初期に回ったのが丹波と吉備であることも思い出される。そして「主基の国」とはその字を素直に読めば「主な基の国」ということである。
大嘗祭(おおにえのまつり)とは、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。一代一度限りの大祭であり、実質的に践祚の儀式。践祚大嘗祭ともいい、 「だいじょうさい」「おおむべのまつり」とも呼ぶ。(Wikipedia より)その年の新米を神に捧げる新嘗祭は毎年の行事だが、天皇が即位して最初に行うものを大嘗祭というわけで、それこそ天皇一世一代の祭祀なのだ。その祭 祀に供える米を収穫する斎田を悠紀の国・主基の国という二ヶ所の国の郡に占いで決めるのだが、約30年前の「古代吉備国論争」(山陽新聞社主催)のなかで池 田彌三郎先生が大変興味深いお話をされている。(ちなみに我々夫婦の大学時代の文学部教授で江戸っ子としても知られていた)
まず、「悠紀・主基」の語源について「行き、過ぎ」つまり 朝廷にとっての「未来の国、過去の国」ではないかとされている。そして確実な文献に残るのは天武紀からなのだそうだが、醍醐天皇から特定の国に限られてい るという。(現在は京都より悠紀は東、主基は西の県から選ばれている。)その国とは「悠紀」は近江、「主基」は備中か丹波に決まっていたのだ。また、その すぐ前まではそれに加えて「備前」「美作」「播磨」を順繰りにまわっている。先生のご意見の趣旨は吉備国は播磨までがその領域に含まれていて、吉備津神社 がそれを表しているというお話であった。
私はこれらの話を読んで思った、この斎田に選ばれる国々「備中」「丹波」「備前」「美作」「播磨」そして「近江」とは天のヒボコに強い縁のある場所 ばかりではないかと。しかも天武天皇が新羅系であることもこれに重なる。
つまり奈良大和にある朝廷の母国は吉備だったのではないだろうか。また、崇神天皇の御代にアマテラスが安住の地をもとめてあちこち巡幸するわけだが その初期に回ったのが丹波と吉備であることも思い出される。そして「主基の国」とはその字を素直に読めば「主な基の国」ということである。


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